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上野の戦争により荒廃した上野の山を、地元の人々は愛し守り、育てあげるための努力を惜しまなかった。


公園の歩み

1 立入り制限とは

明治六年三月二十五日付をもって上野山即ち東叡山の跡地は、寛永寺寺領の一部を残して日本で始めての公園地に指定され、すったもんだのあげく、公園として出発するわけである。しかし公園といっても、聞く人にとっては始めての言葉で、今だからこそ、ああそうかと誰でも納得いくが、今から百年も昔、しかも新しい言葉だからピンと来ないのが当り前の時代であった。
しかし、公園という実感がなくても、まず喜んだのは、山内立ち入りの禁が解かれたことである。慶応三年以来、一般の人びとは山内へ入ることが出来ず、折角の花見の季節でも、不忍池周辺でがまんするほかなかった。しかし、これが解禁になり、上野の戦争によって荒れ放題の山内でも、人びとは待ち望んでいた山の花見も十分楽しむことが出来たのであった。


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上野の戦争(慶応4年) 孟斉画「東台大戦争図」より(上野観光連盟蔵)


過去においても山内に自由に入れたのは、記録に残っているのでは元禄期以後である。しかし、公園制定後の現在においても、山内立入禁止の制限がある。


これは夜間の立入りを禁止しているわけで、つまり、犯罪を防ぐための措置である。


昭和二十三年十二月から「日没より日の出まで」を立入制限した。これも第二次世界大戦後の混乱期で、いわゆる上野が「ノガミ」といわれた受難時代で、時の警視総監田中栄一が「オカマ」(男娼)になぐられるという事件までおこして世を騒がせた時代だから当然、禁止さるべきであった。


戦後も十五年を経た昭和三十四年には物資も豊富になり、世の中は落着きを取りもどしたので、外灯九十七灯から百五十三灯に増やし、公園内を明るくして一年間ほど制限を解いたのであったが、同三十五年から再び犯罪防止のため夜間十一時以後日の出までを制限して現在に至っている。


こうして、公園も世情とともに歩み、憩いの楽園である公園が、世の心ない人によって荒され、こうした措置をとらなければならないことは悲しい次第だが、これは、東京一の広さを誇り、多くの人びとの集る場所であってみれば、止むを得ないことである。



2 公園の管理者

上野公園の地主は何回も変った。明治以前は徳川幕府直轄の寛永寺の寺領。明治になって公園に制定され官有地第三種といって、東京府が管理した。


明治八年には不忍池をも編入して公園地としたが、その翌九年には内務省博物局の管轄となり、明治十五年には帝室の御料地となってしまう。しかし、大正十三年今上陛下御慶事記念として東京市に下賜され、今日(東京都が管理者)に至っている。上野公園と一般にいっているが、正しくいうと、上野恩賜公園というのも、こうしたところからきている。


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第一回 内国勧業博覧会之図 (明治10年)   清親画(星野平次郎氏蔵)


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東京上野忍ヶ岡競馬会之図 (明治17年)   清親画(星野平次郎氏蔵)


ここで、ひとつ上野公園が東京市に下賜されるに至った当時の事情を、生前の尾中勝也(観連相談役故人)からうかがった話をのせる。


大正初期の上野の山は、各種の行事、催しものが次から次と行われていたが、事実、公園内は整備が行き届いていなかったという。これは、規則ずくめの宮内省が管理していたからだ。例えば、一木一石動かすにもお役所へお百度をふまなくてはならない。平和博覧会(大正十一年)の仮御殿を造った時など宮内省へ三十回も足を運んだそうだ。これ位にうるさかったのでちょっとの手入れも大変なわけ。荒れるにまかせるとは、いい過ぎかも知れないが、これでは決して公園は発展もしなければ、地元のためにもよくない。そこでこの状況をみて早速手を打った。つまり下谷区に上野公園を下賜してもらって、地元の人達で立派に盛り立てていくことであった。
大正七年下谷区議会に調査委員会(委員長長尾勝也)を設置して、下谷区民三千人の陳情書を東京市を通じて宮内大臣あてに提出した。結局この運動は、大正十三年の東京市への下賜となって現れたわけであるが、こうした地元の人達の協力により上野公園は立派に成長してきたのである。


東京大正博覧会之全景

東京大正博覧会之全景 (大正3年) ※ロープウェーとエスカレーターが出現した。


脇道にそれるが、第二次世界大戦後の物資難時代に上野の山に桜の木を千二百五十本植えたり、つつじを一万株、八重桜三百本と、これらは皆地元の人たちが資金を出し合って上野の山へ植栽したものだ。上野公園とともに歩んだ約一世紀の間、一喜一憂はあったにしろ、地主が変っても私どもは上野を愛し、上野の山を育てあげるために努力して来たのである。


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