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第一次世界大戦への参加、大正デモクラシー、労働運動、そして史上まれにみる大震火災。


上野公園とその周辺 目でみる百年の歩み

運命の大正期
運命の大正期、大震災で上野公園大活躍

─上野公園の価値が改めて見直された時期─
子供が生まれ、育つためには、いろいろな病気や災害にであう。明治生まれの新生児日本は、大正期に近代病のさまざまな経験をする。例えば、第一次世界大戦への参加、大正デモクラシー、労働運動、それに史上まれにみる大震火災。震災を逃れた多くの人びとを救った上野公園が、公園のあり方を改めて見直された時期でもある。
まさに上野公園の大活躍は、災害の避難場所として最も重要な価値を市民に知らせてくれた。



大正2年(1913)
06.25明治記念博覧会上野公園で開く
11.22徳川慶喜没


《 この頃の記録 》
大正成金が和服を着ると
(米一升十五銭の頃)
・舶来ラクダのシャツ上下八十円
・本絹長じゅ袢六十円
・結城着物と羽織百円
・へこ帯五十円
・下駄十円
・留袖外とう六十円
・中折帽四十円
・スイス金時計二百円
・ワニ皮紙入れ十円
・銀煙管と煙草入二十円
・絹張洋傘八円。
その上、足袋には金のコハゼだった。
明治記念博覧会

明治記念博覧会(星野平次郎氏蔵)





山と池を調和させ大正博

博覧会には毎回新技術が公開されるが、今回はロープウェーとエスカレーターが出現した。
上野の山と不忍池を見事に調和させた大正博であった。


大正博 ロープウェー

大正博 エスカレーター

(星野平次郎氏蔵)


大正3年(1914)
03.20東京大正博覧会上野公園で開く
03.不忍池弁天堂天竜門竣工
07.28第一次世界大戦始まる
11.15第一回国産奨励会上野公園で開く


大正4年(1915)
05.01上野公園で家庭博覧会開く。
07.27不忍池畔で江戸記念博覧会開く。
09.16東照宮三百年祭執行。


大正5年(1916)
03.20上野公園海事水産博覧会開く。
04.01上野三橋取毀し始り、忍川は暗きょとなる。


《 この頃の記録 》
大正六年ともなるともはや好景気とはいえずまさに経済異変、次いで七年には米騒動へとなってゆく。
・風呂代 大人四銭
・風呂代 小人三銭
・煙草敷島 十二銭
・煙草朝日 十銭
・煙草バット 六銭
・米 一升 二十銭
米は七年八月には五十銭まで上がった。
弁天堂前に天竜門落慶

弁天堂前に天竜門落慶(大正3年)(田中幸太郎氏蔵)


江戸記念博覧会

江戸記念博覧会


勧業博の券

明治四十年の勧業博は三枚で十銭。この時は一枚で十銭となった。






大正初期の不忍池畔

大正初期の不忍池畔は桜並木だった(喜多川周之氏蔵)


大正6年(1917)
03.15奠都五十年奉祝博覧会を不忍池畔で開く(五月三十一日まで)
10.上野公園で、化学工業博覧会開く。


大正7年(1918)
08.13米価騰貴で米騒動起きる。
08.不忍池畔で電気博覧会開く。


大正8年(1919)
04.13両大師前広場で、普選大演説会開く。


大正9年(1920)
03.12下谷区は東京市長宛に上野公園下賜請願の意見書を提出。その中で万世橋─田端間の高架線敷設のため現区勢の十分の一を失うと不満をのべる。
04.30上野警察署、上野駅に人事相談所を開く。
05.02最初のメーデー、上野公園で開く。
07.20第二回内閣弾劾国民大会開く。
12.対米問題国民大会上野公園で開く。
台風

化学工業博覧会場も台風には勝てなかった。(池野藤兵衛氏提供)


普選の大演説会

普選の大演説会(両大師前)






大震火災で焼失する直前の松坂屋

左)大正十年頃の上野広小路、中央は不動銀行。(池野藤兵衛氏提供)
右)大正十一年四月、来日された英国皇太子殿下の歓迎風景(大震火災で焼失する直前の松坂屋)


大正10年(1921)
02.上野公園で原敬内閣弾劾大演説会行われる。
08.25上野公園で、ガス値下要望東京市民大会開く。
11.04原首相東京駅で刺殺される。


大正11年(1922)
03.10平和記念東京博覧会上野公園で開く。


1番の電車のラッシュ

大正中期の上野広小路を通る「1番の電車」ラッシュ!女も負けてはいない。(喜多川周之氏蔵)


人力車が行きかう

大正中期、北大門、数寄屋町から不忍池を望む。手前は帝国博品館。(喜多川周之氏蔵)



平和記念東京博覧会

池畔全域を使った雄大なスケールで行われた。この写真は、開会間近で、弁天堂参道にはまだ木材がいっぱい見られる。特に人気を呼んだ朝鮮館(右上)と外国館(その左)。 (星野平次郎氏蔵)


船滑り(ウォーターシュート)

船滑り(ウォーターシュート)

今回の新技術は水上飛行機


摂政官殿下平和博行啓

摂政官殿下平和博行啓





関東大震火災 ─ 上野公園の活躍

のどかな上野公園入口も一転して避難者の群でいっぱい。この時の上野公園は多くの人の命を助けたばかりでなく、一夜に70人もの赤ちゃんを無事出産させ、まさに上野公園の大活躍であった。正面日活、帝国博品館、松坂屋は、二日目に焼けた。


のどかな上野公園入口

避難者の群でいっぱいの上野公園

日活、帝国博品館、松坂屋が一夜のうちにこつぜんと消えうせた。


こつぜんと消えうせた

(三枚とも喜多川周之氏蔵)


大正12年(1923)
09.01関東大震災、下谷区役所も焼失、上野公園内自治会館を仮庁舎にする。
09.15摂政官、被災状況を視察、上野公園にお立寄。


大正13年(1924)
上野公園地は宮内庁より東京市に下賜され、上野恩賜公園となる。
02.05護憲全国記者大会上野精養軒で開く。
02.07上野公園で護憲大示威行進行う。
09.04上野公園二本杉原に府立美術館起工式。


摂政官殿下上野公園をご巡視

九月十五日、摂政官殿下(今上天皇)は上野公園の災害状況をご巡視。供奉に福田戒厳司令官、永田東京市長、後藤新平、復興院総裁。


家財道具を持って故郷へ

家財道具を持って故郷へ ─ 上野駅へきてみればこの有様。この上野駅も二日目には鉄骨だけを残すこととなった。


線路を歩いて日暮里へ

故郷への列車は日暮里駅から出るため、人々は線路を歩いて日暮里へ。

(三枚とも喜多川周之氏蔵)



湯島から西黒門町

左)湯島から西黒門町(現上野一丁目)方面をみたところ。
  左端の鉄塔が松坂屋脇にあった宇津救命丸(右)とライオン歯磨の広告塔。
右)東京美術学校内で野天教室が開かれた。


さすが西郷ドン

左)帝国博品館の玄関。現上野二丁目一番六番辺。
右)さすが西郷ドンはビクともせず、人さがしに一役買っている。


上野公園から見た惨状

上野公園から見た惨状、浅草十二階が爆破されたのが9月23日だから、この写真は9月2日から22日までの間に撮ったもの。
(喜多川周之氏蔵)


西郷銅像付近から三橋五条町

左)下谷町、仲御徒町四丁目付近(現上野六丁目)、中央に山城屋旅館の土蔵が残っている。蔵の手前にやがて高架線ができる。
右)西郷銅像付近から三橋五条町、上野町方面を見たもの。中央に五条天神社跡が見える。二年後の大正十四年には左上道の付近に高架線が建設される。


大正13年の上野駅前

大正13年の上野駅前、左に上野駅、右端手前が高架線予定地、右上に下谷郵便局(現京成デパート)


上野駅も急ピッチで復興

上野駅も急ピッチで復興していった。



半世紀の逆転
大正14年(1925)
05.05普選成立大祝賀会を上野精養軒で開く。
09.24五条天神社、現在地に移る。
09.27上野─雷門間地下鉄起工。
10.01上野駅─神田駅間に高架線開通。御徒町駅できる。
11.01東京環状線電車全通。


大正15年(1926)
05.01東京府美術館開館。
09.日本学士院会館竣工。
12.25大正天皇崩御


馬車

震災直後唯一の交通機関として活躍。品川─上野間五十銭


上野松坂屋

大正13年1月には早くもここまで復興、皇太子御成婚奉祝パーティーを開く上野松坂屋。右側には「進め」の信号機をそのたびに巡査が動かしていた。



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