上野観光連盟

上野の歴史−1

上野公園とその周辺 目でみる百年の歩み
明治四年(一八七一)まだわが国に公園ということばすらなかった時代に、オランダの一等軍医ボードワン博士は明治政府に公園を造ることを提言し、これによって上野公園がわが国の公園第一号に指定されるきっかけとなった。
その後の上野公園は、たび重なる博覧会、展覧会等によって、文明開化の発祥の地となると同時に、公園とはこうあるべきものとの手本を示しながら、現代にいたっている。その百年の間には、何度かの危機にであい、また幾多の辛酸を味わいながらも、われわれの先人はそれを見事にのりこえてきたのである。
ボードワン博士像
昭和四十八年十月五日除幕
文明開化の発祥の地となる上野公園。上野公園誕生の背景 – 太政官布達とボードワン博士

公園誕生

1 太政官布達 だじょうかんふたつ

明治の文明開化とともに近代日本の建設が始まった。欧米先進諸国の制度や施策がとりいれられ、近代日本の基礎がきずかれたのもこの時期であった。上野公園もこうした新しい日本の建設期において誕生をみたのである。

明治六年一月十五日、政府は公園設定について、各府県に対して、通達を出した。即ち「古来から名所旧跡といわれるところは公園として申し出よ」とのこと。いわゆるこれがかの有名な「太政官布達第十六号」である。わが国で昭和三十一年に都市公園法が制定されるまで、後にも先にもこと公園に関しての法律的効果をもつものは、この太政官布達だけである。

江戸末期庶民の花見風景  広重画(田中幸太郎氏蔵)
「上野清水ヨリ不忍遠景」(田中幸太郎氏蔵)

正院達第拾六号府県ヘ
三府ヲ始、人民輻輳ノ地ニシテ、古来ノ勝区名人ノ致跡地等是迄群集遊観ノ場所(東京ニ於テハ金竜山浅草寺、東叡山寛永寺境内ノ類、京都ニ於テハ八坂神社境内嵐山ノ類、然テ此等境内除地或ハ公有地ノ類)従前高外除地ニ属セル分ハ永ク万人偕楽ノ地トシ、公園ト可被相定ニ付、府県ニ於テ右地所ヲ撰シ其景況巨細取調、図面相添大蔵省ヘ可伺出事
明治六年一月十五日   太 政 官

この太政官布達であるが、「古来ノ勝区」とは即ち景勝地又は名所をいい、「名人ノ旧跡」即ち史跡などで従来人々が遊覧鑑賞した場所を指している。その例として浅草寺や寛永寺などの境内を示し、浅草寺や京都の祗園社は全くの盛り場であるが、上野や嵐山は風景のすぐれた景勝地でもあるという。即ち東京とか京都の人民の集る都会地においては、以上あげたような場所は公園とすることがよいという。

公園とは何か…布達文には「万人偕楽ノ地」の一語でいい表している。
当時における政府の公園に対する考え方は「古来から風景のよい名所や人の多く集る盛り場等で、その土地が官有であるか又は官有と認められる所は永久に国民の偕に楽しむことのできる公園というものに定められるであろうということであった。その観点から上野の山は公園として最適の地であった。

2 公園制定

東京府は太政官布達の翌日、明治六年一月十六日、公園候補地として金竜山浅草寺、三縁山増上寺、東叡山寛永寺、富岡八幡社等の境内地および飛鳥山の五ヶ所を選んで大蔵省へ申し出た。飛鳥山を除き他の四ヶ所は全部神社仏閣の境内地であったが、この申し出により、上野東叡山寛永寺の境内地は一部を残して、いの一番に適格なりとし、同年三月に至り正式に公園地に指定されたのである。

人力車にのり、日傘をさしてのお花見風景(明治20年頃)

「公園」という言葉は、明治の初期においては、新語。当時はどう解釈していたのかというと、公の遊園とか遊園地と考えていたようであるが、明治三十年頃に出た「東京風俗志」(平出鏗二郎著)を見ると公園、即ち盛り場として取り扱っている。いずれにしても欧米の都市公園をまねて造ったのであり、多少の誤解や混乱は、まぬがれなかったことであろう。

当時の公園というものはそういうものだったのである。どうしても、日本の公園は設立の趣旨とは違った盛り場化する傾向にあった。たしかに、公園を設置したところは、盛り場となっていった。上野の街も、公園とともに繁栄したものであり、街の繁栄には欠くことの出来ない主要な位置を示めている。しかし、前述した五公園の発生からその後の発展経過を見ていくと、「公園」という聞き慣れない新造語に対する解釈の混乱に巻き込まれ、公園本来の使命達成、つまり、正常な発展をとげた公園は、まず上野公園以外にはない。とういうことは、それぞれの公園経営当事者が充分な予算をもたなかったためと、また一つには創始期なので止むを得ないとはいえ、公園経営のため、射的、玉突、楊弓、茶庵、見世物等に賃貸してしまったのである。「もしそれ、上野公園にした所でその管理が宮内省(明治十九年より)に移らずに東京府に委ねられていたら浅草、深川、芝の三公園と同様俗悪化の道を辿ったにちがいない」(「世相史から見た公園の歩み」前島康彦著)後にも述べるが、上野公園の場合は、管理者が国の機関だったので、そうそう自由な経営が許されず、そのお蔭で、公園の手本とされるような発展経過をもち、一千万を超える大東京の中にあって広さにおいても、施設、景観、緑地など都市公園として、内外ともに誇りうる上野公園となったのである。

3 生みの苦しみ

上野の山は戌辰戦役により荘厳華麗を誇った旧寛永寺の堂宇も一切灰儘に帰し、見るも無残な荒涼たる焼野原となってしまった。明治維新により土地は国家に没収され、一時は会計官が管理していたが明治二年二月には、慶応三年以来の山内立入禁止が解かれ、一般の人びとの遊覧に供し、さしも荒れるにまかせた上野の山も、昔日の面目をとりもどしつつあった。前述したとおり明治六年に上野の山一帯は、公園に指定されたのであるが、公園地として誕生するまでには幾多の曲折があった。

明治6年頃の不忍池弁天堂参道の水茶屋“不忍の池でしのぶはこれいかに”の情景がしのばれる。

上野の山一帯は、明治元年十二月から東京府において管理していた。明治三年三月に至り、民部省は営繕の材料にしたいといって、山内の木を伐り倒そうと東京府に迫ったが、ことわられて失敗に終った。また同年の四月には不忍池を埋め立てて水田にする計画があったが、山本復一、亀谷行の両人が、岩倉、木戸、大久保の政府要人を動かして埋め立てを阻止したといわれている。同じことが昭和の時代、終戦直後から二十四年にかけて再び繰り返され、上野観光連盟の前身上野鐘声会を中心とした不忍池埋立反対期成同盟によって阻止された。上野公園の自然美がそこなわれずにすんだのも幾多先人の努力の結晶があったからこそである。

それから、同じ明治三年の五月には寛永寺の中堂跡即ち今の竹の台付近の地が大学東校の病院建設用地に決まり、ここで寛永寺は一山を挙げて反対の嘆願をしたが、入れられず遂に文部省用地となってしまった。こうした時に、火の手は東照宮に及んできた。旧物破壊の時代思想にのって、東照宮の本殿までも破壊しよういう訳だ。これを耳にした木戸公は、大変驚いて九鬼隆一に中止方を命じたが、九鬼が上野に着いた時には、山の入口の大木が六本程伐り倒されていたということであった。続いて明治五年二月には兵部省(陸軍省)の陸軍病院、陸軍墓地の用地に決定してしまったのだから、時の政府は、次から次へと、あの手、この手で攻めてきた。いわば、上野の山の受難時代である。ここに上野公園が成立するについて、一つの実話が伝えられている。

ボードワン博士

明治三年寛永寺中堂阯が、大学東校の病院地に決定し、之が経営については、石黒忠悳、相艮知安等が専ら之に当って居った。然るに丁度その頃、旧幕府の長崎医学校の教師であったオランダの一等軍医ドクトル・ボードワン(Dr.A.F.Bauduin)が帰国の途次上京していたので、石黒氏は彼を誘って上野の地を検分せしめその意ある所を大いに誇った訳であったが、ボードワンはこの地に病院を造ることば不可とし、直ちに公園建設の義を太政官に建白したので、官もこれを諒とし、病院設立の事は沙汰止みとなった。石黒氏は折角の計画の覆された事を憤り彼に迫ってその理由を質した所、ボードワンは、かかる景勝閑雅な由緒ある地は宜しく西欧都市の例に依って公園と為すべきである事を極力説明したのであった。
東京市役所刊「上野恩賜公園」より

長崎医学校の一等軍医ボードワン博士は、上野の山のようなところは、先進国の都会地にならって公園とすべきだと進言したので、当初に計画した病院建設案はくつがえされてしまった。この人の一言がなかったならば、上野公園は永久に誕生をみなかったであろうし、誠にこの人こそ上の公園の生みの親である。

ボードワン博士の先見にこたえて、当時、上野の山の管理者であった東京府当局の努力の一端もあわせて紹介しておく。

話しは、ボードワン博士の挿話と続く。つまりこうである。大学東校病院、陸軍病院等の敷地として上野の山に白羽の矢が立った。正式に太政官布達によって上野の山は公園地に決まり、東京府の管理に移った頃である。東京府は、公園にこうした建物が出来ることは、太政官布達の趣旨にも反するし、第一、公園としての機能をそこなうものであるから、建設敷地を早く引き渡せと文部、民部両省に要求した。ところが両省はすでに建築の設計書が出来ているのだから、公園内の施設として置かせてくれといってなかなかゆずらない。政府を向うにまわして、かなり激しい論争があったようである。当時の府知事大久保一翁は、公園というものに対して、かなりの識見をもっていた人である。むしろ政府の役人よりも公園とは、かくあらねばならぬということを理解していたかも知らない。次の一文は両省の態度をきめつけた「上野山内一件」である。

元来公園之義、各国ノ模様等粗相承り候処、街衢中へ布告スル位置格別注意アルハ勿論、概シテ園中二於テ人家等取設侯義ハ更二無之由、然ルニ彼ノ上野之如キハ徳川氏之廟所者勿論、慈眼大師並塔中之寺院等現在罷在候上者、迚モ各国之体裁ニモ難レ倣、仮令、漸ヲ以位置相附候ト申而モ、則令之処致兼可申、右二付、前々之廟所等之如キ園中一部分ヲ人目二供シ候ハバ、今日二在テハ却テ一層之好景トモ可相成ト存、左侯得者文部省等之建築モ前断同様観覧ニ供候通ノ建築相成候テ則段不都合モ有之間敷哉尤公園立体裁ハ是非彼レノ位置ヲ模写シ候半而者不相成儀二候テ‥‥云々

明治14年弁天堂参道の水茶屋撤去後 (司馬江漢画、東京国立博物館蔵)

「上野山内一件」書類綴に納められている明治六年一日、即ち太政官布達後、十日ばかり経た頃、東京府知事から正院(内閣)にもの申した抗議文である。

この抗議文の意味はこうである。外国の公園などの様子をきくと、市中の公園は、特にその構造意匠(当時これを位置という表現をした)に注意すべきものがあるが、上野には徳川氏や寛永寺関係の色々な建物がすでにあり、外国のように園内に宏一軒も置かないといういき方は、一寸むずかしい。従ってこれらの既設の寺院建築などもむしろ園内の一景物として保存的に考えるならば、今では、かえって興味があると考えられる。文部、民部両省がどうしても一部着手した建物だけを園内に置こうというのなら、それほ当時風致的にも公園風景と調和のとれたものを置け。それなら差支えないのだ……が。と、まことに立派な論陣をはったのである。

政府に対して、こうした抗議をした為もあって、上野の山は公園地に指定されながらも、境界の設定、管理方法等が、他の四公園に比べて一番遅れてしまっている。一時的な遅れは、後の発展段階で取り戻すことができたが、上野の山が公園として発足するに当っては官民ともにもみ抜いたわけで、難産なら難産な程、わが子が可愛いくなると同じように、上野公園は多くの人びとに見守られながら日本一の公園に発展してきたのである。

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