オランダの一等軍医ボードワン博士は、単に上野公園のみでなく、日本に公園を誕生させた、名実共に“公園生みの親”といっても過言ではなかろう。
今でこそ、公園の意義を説く必要はないほど重要視されているが、百年も前、しかも文明開化の波にのって何でも新しく作りかえ、建設する明治初年のこの時期に、あえて空間スペース、すなわち緑地帯を残すことこそ将来の国際都市にふさわしいと教えた。
このボードワン博士の卓見こそ、明治政府を動かし、日本に公園を誕生させたのである。もちろん博士の建白を諒とし、すでに決まっている大学東校の病院建設予定地を変更した太政官も立派なものであると共に、明治六年一月十五日太政官布達第十六号で、各府県に「公園予定地を申し出よ」といわれた東京府は、その翌十六日に、早くも寛永寺領他を申請したとある。何と驚くべきスピード行政ではないか。
もし、上野の山に予定通り大学東校の付属病院ができていたら、ちょうど本郷東大とその周辺のようになり、上野公園はもちろん当時寛永寺の下寺跡地であった上野駅もなく、現在のような上野の発展はありえなかったのである。これから以下順をおって百年の写真集を掲載するが、こうした行事もできなかったはずである。まさにボードワン博士は公園の生みの親であると同時に、上野の街の救世主でもあった。
上野観光連盟は昭和三十八年、上野繁昌史を編纂するにあたり、ボードワン博士の功績を確認し、これは誰よりも先に顕彰するべきであることを決定した。
昭和四十七年九月十八日、上野観光連盟は上野公園開園百年を記念して、博士の顕彰をする旨台東区並に台東区議会に請願、若干の曲折はあったものの、全会一致で採択された。同時に東京都にも陳情、快諾を得、オランダ大使館に協力を要請したところ、駐日オランダ大使のテオドール・ポール・ベルグスマ閣下一等書記官のファン・デル・スロート氏の努力によって、ついにオランダ本国政府を動かし、博士の胸像を製作して頂けることになった。作者はオランダの一流彫塑家マリ・アンドリッセン(MARI ANDRIESSEN)である。
建立地は上野公園中央噴水広場の西側、昭和四十八年十月五日除幕を目標に、作業は進められた。碑の背面には日本を代表する桜とオランダを代表するコッパビーチを植え、前面には四季折々の花を咲かせ、特に陽春四月にはオランダ直輸入のチューリップが絢を競うことになるであろう。
東京都は上野公園開園百年を記念して、「上野の森回復」植樹運動を始め、その第一歩として、東京文化会館前の駐車場を見晴台に移転し、全面的な緑地帯とすべく、目下造成中。上野観光連盟も、ボードワン博士顕彰事業の一環として、この「上野の森回復」植樹運動に協力、百年前、緑の必要性を説いたボードワン博士の教えを踏襲する予定である。