大政奉還-王政復古。やがて新しい時代を迎えるのだが、その前夜の苦しみは、まさに生みの苦しみ。打倒徳川の実が結び、天下は明治革命へと流れていく……。
慶応三年十月十五日徳川幕府は大政奉還をしたにもかかわらず、三カ月後の慶応四年一月七日に薩長連合軍と鳥羽伏見で戦わねばならなかった。
〝勝てば官軍、敗ければ賊軍〟のことば通り、負けた慶喜は朝廷に弓を引いた大敵だと、直ちに慶喜征討軍が編成された。征討大将軍が仁和寺宮純仁親王(のちの小松宮彰仁親王)とは何という歴史の皮肉であろうか。
上野の山の戦いは一日で勝敗が決まった。彰義隊が負けたのである。大村益次郎ひきいる新政府軍2万余に対し、天野八郎ら旧一ツ橋家の家臣らは2千余。滅びゆく徳川に最後の忠誠を誓い少数ながら勇敢に戦った。
上野の山を下りた生き残りの隊士たちは五百余名。会津に五稜廓にたてこもりとことんまで新政府に抵抗を試みるが遂に二百五十四年にわたる徳川の天下は明治2年5月の戊辰戦争終結と共に幕を閉じたのである。
勝安房の君 花野
当今形勢は実に叡虜に出るところか、はた天命か、止みなんなんとして止みかたき徳川家忠義の浪士、上野山中戦死のありさま、素より戦の意味なきに大軍四方を取り囲んで火中に必死を極めたる其の忠、其の義、詞尽きたり、伝へ聞くに都には此の頃楠正成がため叡虜を寄せさせ給ふとか、楠は南朝方なり、然るを北朝の御皇統にて末の世の今に至り さることの出来たるは、ただ其の忠によるものなるべし 上野の宮に討手を向けられしは 又尊氏を例とやいはん、定めし勅諚にもあるべきなれど、不思議の事と思ひ侍る、いかで此の忠臣どもに大和魂の動きなきを哀むべきや、君主はなしとも幸ひに君尽力して千変万化のおはすにあらずや、早く其の亡き骸を埋めて、せめては亡き霊を慰めまほし、尤も忠臣義士の死様世の人に示めさんに、なかなかに屍の面目、徳川家のほまれなり、一度は人心をして喜ばしめ、二度は人心して傷ましな、之をしも雨露に曝らし日に乾し長く泥土に置くものなれば其の恨みは天下にあらん 早く取り収めん事を公になさめし給へ 官軍も彼の楠を例とせば、いかでか之を悪しとや申さん、此の事疾く疾く申すなり、婦の長舌も時世にこそよれ、さりとも猶罪とせられば坐して死を待たんのみ 何とかすべき あなかしこ
大仏殿は、上野の戦争の時、辛じて焼失をまぬがれたが、その後ご一新の荒波が吹きまくり、旧物打破、わけても徳川のにおいのするものは手あたりしだい取りこわされ、大仏殿もご難にあった。